■ 拝殿とは本殿の前面にあり、祈祷や参拝者が拝礼を行う社殿です。自分の考える拝殿の 起源とは、祭神を奉斎する本殿が先に存在し、拝殿とはもともと祭祀・呪術の行われる「場所」であったが、それらが恒例化していった際にはじめは仮設の建物であったものが次第に恒久的な性質のものに変化していった、というものでした。伊勢神宮には拝殿が存在しないことからもそのように解釈していましたが、調べてみると実は本殿よりも先に拝殿が存在していたらしく、話は少々複雑です。■「大和の大神神社には拝殿があって正殿がないが、これが神社の古い姿と考えられ、また沖縄の拝所(うがんじょ)が神社の一形式とされるのもそれである」。(*1) ■これらの本殿が存在しない形式は現在の神祇信仰(天神(あまつかみ)、地祇(くにつかみ)を祭る信仰形式)よりも古代の自然信仰(アミニズム)により近いため、祭礼の際に神を招き降ろし、榊・岩石や人などの依り代に憑依させていたのでしょう。そのため神を奉るための本殿は必要がなかったわけですが、むしろ山や森などそれ自体が本殿であったといえるかもしれません。■そういった古代の形式から後に、1. 大陸からの稲作農業の伝来、2.中央集権的なシステムとしての律令制が導入され日本に本格的な国が誕生、というこれら2つの歴史的インパクトによって神社の形式も変化していきます。■この古代からの変化は伊勢神宮の三つの発展段階と合わせて考えると分かりやすいかと思います。
すなわち(一).原初の自然信仰としての心の御柱の段階、(二).稲作が伝来し農業を支配する神としての太陽神・穀霊神を奉る穀倉の段階、(三).ヤマト政権が成立し太陽神・穀霊神が天照大神・豊受大神という人格神になり人の姿をした神を奉るのにふさわしい唯一神明造りの段階です。■さらに次の段階として、ヤマト政権によって中央集権的な地盤を固めるために(三)の段階がモデルとして全国に広められました(「畿内及び諸国に詔して、天社・地社の宮を修理せしむ」(『日本書紀』(原漢文)、修理とは律令用語で造営のこと)。
■ここでもう一度考えたいのは伊勢神宮には拝殿が存在しないことと、逆に原初の信仰においては本殿が存在していないことです。拝殿のない伊勢神宮のモデルと本殿がない古代の神社が合わさって、現在の拝殿と本殿がある神社の形式になったと仮定すると、伊勢神宮や沖縄の拝所になぜ現在もそれぞれ拝殿、本殿が存在し得ないのか、その答えを導くことが出来そうです。ただ問題は古代の拝殿と現在の拝殿を同一視することが出来るのかという点でしょうか。
■参考文献
・岡田米夫 日本史小百科 『神社』 (東京堂出版1977)*1
・藤井正雄 新版『神事の基礎知識』 (講談社1987)
・井上寛司 『「神道」の虚像と実像』 (講談社現代新書2011)*2
・上田正昭編 『伊勢の大神』 (筑摩書房1988)